★京橋消防団管内の風土記★
京橋・八重洲地区
 京橋の名の由来は、江戸から京へ向かう時に、日本橋から出発して最初に渡る橋だったからという説と、東海道の終点の京都三条大橋に似ているからという説がある。八重洲の名は、慶長年間に漂着したオランダの航海士ヤン・ヨーステンが徳川家康から、この地を拝領したことにちなんで呼ばれたのが起源とされている。
 「明暦の大火(1657)」後、江戸が見事に復興した寛文のころから、水運と大通りに面しているなどの立地条件に恵まれた京橋川(現在の東京高速道路会社線下)の京橋ぎわには、青物を扱う人々が集まり、次第に盛大な青物市場が形成されていった。俗称、大根河岸と言われ、河岸に積み上げられた大根が白い花の咲いたように見えたと言う。この市場は、大正12年(1923)の関東大震災で大きな被害を受けたが、その後見事に復興、当時問屋68軒、仲買106人といった盛大な市場であったという。
 しかし、銀座がハイカラな町として発展するにつれ、銀座入口の京橋ぎわには、青物市場があることが衛生上、美観上たびたび問題視されるようになった。昭和10年(1935)2月に中央市場法の施工により築地に中央市場が開設され、江戸、明治、大正と続いた京橋の市場も築地に移り、その姿を消していった。これより先昭和5年(1930)3月には防火帯避難道路的性格をもつ幹線道路としての昭和通りが完成し、地域の景観が大いに改まり、また戦後ビルが林立するようになって、一大ビジネス街に変貌していった。
 八重洲地区は、昭和4年東京駅八重洲口が開設されたことに端を発し、戦後大丸東京店が開店して、にはかに中央区の表玄関として脚光を浴びるようになった。
さらに東京オリンピックを境にビル建設ラッシュが続き、昭和44年八重洲地下街が完成し、新しいショッピング街として発展を遂げている。

 
銀座地区
 銀座の歴史は、徳川幕府が慶長17年(1612)駿府(今の静岡)にあった銀座を現在の銀座二丁目に移転し、銀貨の鋳造に当たらせ、銀座役所を置いたことに始まる。
  当時は、付近一帯に両替商の店が並び町名も新両替町と呼ばれていた。(銀座に対して、金座は日本橋本石町、現在の日本銀行付近にあり、両替町と呼ばれていた。)その後、改鋳の不正が発覚し、寛政12年(1800)蠣殻町(現在の日本橋人形町)に移転させられたが銀座の名は、俗称として残り正式名称となったのは、明治2年(1869)のことである。
 今日のように、銀座の繁栄が始まったのは明治以降で、明治5年新橋〜横浜に鉄道が開通、乗合馬車が新橋〜浅草間に走り、明治7年にはガス灯が出現、さらに明治36年(1903)には路面電車通るなど交通網が整備され、次第にショッピング街が形成されていった。「銀座の大火」を機に政府の肝入りで始まった。銀座の煉瓦街は明治10年(1877)にはほぼ完成したものの、洋風建築になじめない一般住民には不人気であった。しかし次々に新聞社が進出、一大情報産業基地として時代の先端を先取りする街へと変貌していった。大正12年(1923)の関東大震災で全域が焦土と化してしまった銀座地区であったが、復興事業で昭和通りが新たに開通するなど、道路の整備が進み、デパートが次々に進出するに及んでカフェ、バーなども大いににぎあいをみせるようになった。
 昭和20年(1945)東京空襲後の銀座は、いたるところに瓦礫が山と積まれ、かつての銀座の面影を残すものがないほどであった。この復興のため、江戸時代から銀座の水運の要として重要な役割を果たしていた三十間堀川(昭和通りと銀座中央通りの中ほどに平行して流れていた水路)が埋め立てられ、当時木挽町と呼ばれていたほど両岸に多くあった材木商や船宿などがその姿を消していった。
昭和30年年代に入ると外堀川、汐留川、京橋川などがすべて埋め立てられ、高速道路が走り、景観が大きく変わっていった。また、外堀の埋め立てと並行して複数の地下鉄工事も進められ、銀座線のほか、丸の内線、都営地下鉄1号線、日比谷線が相次いで開通し、銀座総合駅へと発展するなど、交通の便が飛躍的に高まっていった。(昭和49年には有楽町線が開通)
 昭和39年(1964)には東海道新幹線が開通、東京オリンピックが開催されるなど高度経済成長の波に乗って、再開発やビルの大型化が急ピッチで進み、新たな商業機能を持つ店舗やモダンなオフィスビルに生まれ変わった。現在では世界の名だたるショッピング街、文化の街、時代を先取りする街として発展をとげている。
歌で有名な「銀座の柳」は、昭和42年都電の廃止、道路拡張で完全に銀座から消えてしまったが、今は街の人々の手によって若樹が御門通りや銀座柳通りに育っている。
 都電廃止を機に行われた銀座大改修が終わった昭和43年(1968)には、「明治100年記念大銀座祭り」が華やかに開催され、以降毎年10月に「大銀座まつり」が恒例としておこなわれるようになり、中でも「音と光のパレード」はデパートなどが花自動車を繰り出し、一帯が120万人の銀座ファンで埋め尽くされるほどの盛況をみせている。
昭和45年(1970)にはじまった銀座大通りの歩行者天国も、土・日曜日に家族連れでにぎわいをみせている。

築地地区
  明暦3年(1657)、「明暦の大火」ののち、徳川幕府は復興のため、焦土を利用して明暦から寛文(1655〜1672)にかけて、木挽町海岸より順次大規模な埋め立て事業を行った結果、出来たのが築地地域であり、地名も「土地を築き上げた」ことに由来している。
 当時は人力による埋め立てで、難工事の連続であったことは、想像に難しくない。埋め立て工事の際、荒波のため進まなかった時に、波間に流れて来た御神体を祀ったところ、以後波もおさまり工事が進んだと伝えられている波除神社が、築地一帯の氏神として現在海幸橋のたもとにある。
 明治維新まではこの築地地区一帯は、大名・旗本の屋敷が多いところであった。隅田川べりの南小田原町と呼ばれていた地域は、かつて漁師や零細商人が住んでいたのが、のちに幕府の軍艦訓練場となり、明治になってからは海軍造兵廠が置かれ、さらに海軍大学校が開校するなど、海軍の中枢基地とそれに関連する商店が集まり発展して来た。
 日本橋魚市場と京橋川にあった野菜市場が築地に移転したのは、昭和10年(1935)2月で、ここに日本最大の市場が誕生した。現在、市場機能を維持しながら、大規模な再整備計画が進行中で、新しい市場として生まれ変わろうとしている。
 有名な築地本願寺別院は、元和3年(1617)京都西本願寺の江戸別院として浅草横山町に創設されたが、明暦の大火で焼失、現在の地に再建されたものである。現在の本堂は昭和10年4月に完成された。

明石町地区
 京橋の名の由来は、播州赤穂(現在の兵庫県)の漁師が移り住み、風景が明石浦に似ていたことからこの名が付けられたと伝えられている。
 この地区は明治維新までは、大名屋敷と旗本屋敷であった。これを接収した明治政府は、諸外国との通商条約に基づき外国人が集中居住する外国人居留地とした。当時は、ごく狭小な明石町のほか3つの町に別れていたが、その後、外国人居留地の全域が明石町と呼ばれ今日に至っている。明治32(1899)条約改正で東京市内での外国人の居住が許され、居留地が廃止されるまでの30年間に、この地が近代日本の文明開化に大きな役割を果たしたことは余りにも有名である(1京橋の今昔(2)参照)。当時の異人館の町並みは、関東大地震でその面影を失ったが数多くの記念碑が残されている。
 文明開化の源となった主なものは、次のとおりである。
・ 居住地時代明石町にあった外国の公使館は9か国、領事館は10か国であった。
・ 著名なミッションスクールの多くがこの地にあった。
・ 幕末この地にあった中津藩奥平邸内に福沢塾(現慶応大学)が発足した。
・ 中津藩奥平邸内で安永3年(1774)、オランダの解剖書ターヘル・アナトミアの翻訳「解体新書」が杉田玄白らにより完成した。
・ 明治2年(1869)、日本で初めて東京と横浜間に電信が開設された。
・ 明石町に住んだ宣教師ヘンリー・フォールズは拇印から指紋が個人の識別に役立つことを発見し、発表した。
・ アメリカの宣教師ウィリアムズは、立教学院や日本聖公会を創設し、後にアメリカ宣教師トイスラーを呼んで、聖路加国際病院を完成させた。
現在の明石町は、都市再開発が進行中で平成6年6月に完成した聖路加ガーデンは、東京の新しい名所となっている。

八丁堀・新川地区
 八丁堀の名は、「東京府志料巻一」に「上は京橋の水路に続き、下は築地の海に入る。寛永年間、通運便利のため、海口より長さ八町の堀を鑿し、故に名づくと言う」に由来している。この地域は江戸時代、与力、同心の組屋敷が多くあったことで有名である。町奉行配下の与力、同心は幕末当時与力が46騎、同心が280人で南町奉行(現在の数寄屋橋有楽町側)、北町奉行(現在の呉服橋付近)にそれぞれ半数が所属していた。与力300坪(約1,000u)、同心100坪(330u)程度の宅地が与えられていたが生活が苦しいことから、同心の多くは土地の一部を町人に貸し生活費に当てていたとされる。
 この地域は関東大震災後、八重洲通り、新大橋通りの完成により街並みが大きく変貌した。現在は住宅、商店、印刷所の街からビルの林立するオフィス街へと変わってきている。
新川地区は、かつて別名霊岸島と呼ばれていた。この地に霊巌(岸)寺あったことに由来する。
 霊岸島を東西に横断していた堀川が新川であったが、昭和23年(1948)戦後の灰じん処理のため埋め立てられ今はない。当時から水路に恵まれいた霊岸島は、江戸の酒問屋のほとんどが集中していたほど栄えていた地域であった。灘や伏見で積み込まれた樽廻船の新酒が、ここで荷降ろしされ、物流の拠点でもあった。しかし、明治の中期、汽船の登場や東海道線の開通などにより次第に衰退していった。
 現在は、超高層のインテリジェントオフィスビルや超高層マンションが建ち並び、様相を一変させている。

新富・入船・湊地区
 明治維新まで新富町は、大富町と呼ばれていた。明治元年(1868)11月、外国人居留地の開市と同じ日に、この地域全域にわたり新島原遊廓が開設されたが、わずか3年後の明治4年(1871)7月に廃止となった。
 この時、町名も新島原と大富町とを合わせた新富町に改められたが、遊廓という建物構造から一転して商業地にも変身できず芸者置屋、料亭、旅館などに生まれ変わった。明治5年(1872)9月、この地に「新富座」が開館し、大いに活況を呈し、明治22年(1889)歌舞伎座ができるまで演劇の中心地であったことは有名である。現在では、商店、住宅などの混在地となっている。
 入船、湊地区は、徳川幕府が外国人居留地の開設準備に合わせて、水路輸送に便利なこの地に鉄砲洲貿易場や船着場を設けて開港にふさわしい「本湊町」「湊海岸」「入船町」などと名付けた。
 明治初期から中期にかけて、多くの新聞社が銀座に進出した(銀座の項参照)。関東大震災を契機に関連業者が銀座からこの地に移り、現在も多くの出版、印刷、製本所が一般商店や住宅と混在している。
 また、湊一丁目には古い歴史を持つ鉄砲洲稲荷神社があり、船舶関係者や地域の人達の信仰を集め、3年に1回、神幸祭が行われている。鉄砲洲という名の由来は、現在の湊・明石町東部あたりは、徳川家康の開府当時、南北八町もある鉄砲の形をした中洲であったことからその名が付いたといわれている。

浜離宮庭園
 寛永(1624〜43)のころは、将軍家の鷹狩場であった。のち、承応年間(1652〜54)松平綱重の別荘となり甲府浜屋敷または海手屋敷とも呼ばれていた。
 六代将軍家宣になってからは将軍家の別邸の形になり、「浜御殿」と称し、庭園の拡大、四囲を石壁にして大手門を設け、大小の池を掘り茶室を設け、京都の宮家や公卿をもてなす場所となった。
 幕末、海軍所として、洋式の石室を造ったが、明治維新後、朝廷が接収し迎賓館として使用、名称も延遼館と命名された。
 明治3年(1870)10月に宮内省に属することとなり、「浜離宮」と称するようになった。
 戦後は東京都の管理に移り、復旧整備が行われ、28万uの美しい庭園は、現存する唯一の潮入の庭園として国の特別名勝・特別史跡に指定され、一般にも開放されている。


◆ 出典・引用文献 70年のあゆみ・・・・「京橋消防署」

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